放送禁止映像大全

書店のサブカルコーナーの一角で「いかがわしいオタク本」の臭気を放っていた本書も、シンプルな装丁の文庫本になり、他の文春文庫と肩を並べるようになって、大分違った趣をかもしているように感じた。そういう理由から手にとってみる気分になり、読んで見た。
「放送禁止映像大全」は封印映像カタログであり、昭和〜平成の映像文化史である。日本でテレビドラマ・テレビアニメ・劇場映画・オリジナルビデオとして発表されてきた膨大な作品群の中には現在、ソフト化・再放送の日の目を見ていない、またはソフト化・再放送の際に表現規制の憂き目を見ている物もまた膨大にある。
本書はこうした作品の一つ一つについて紹介・短評を加え、また関係者への取材から封印・修正の真相を明らかにする。筆者天野ミチヒロは「特殊な映像を収集する趣味」が高じて本書を書き上げたと後書に記しているが、よくもこれだけの数の作品について調べ上げたものだと頭が下がる。
さて作品が封印・修正される最たる理由とは何か。それは差別用語である。
映像作品のテレビ放送には「放送倫理」に照らして適切かどうかテレビ局の判断が介在する。かつては「放送コード」という一様の「差別用語」基準があったが、現在では各局の自主規制にゆだねられている。
「作品が差別的」と「作品に『差別用語』が出る」には大きな隔たりがある。
なぜならある言葉が差別用語となったいきさつは多くの場合後付けの結果論であり、差別用語(=言葉)は差別意識(=差別)の表層に過ぎないからだ。
たとえばここ100年で「不具者」は「障碍者」になり「障害者」になり「障がい者」になり「友愛者」になった(?)。これは人々に人権思想が浸透し、差別意識が取り除かれていった進歩の軌跡といえるだろうか?
断じて否である。むしろ、何も変わっていないのだ。人々の差別意識という川上がいつまで経っても薄汚れたままだから、川下の言葉をいくら取り替えても汚染され、やがて使用に耐えなくなってしまうのだ。そして言葉が新しく取り替えられるとき、それまで使っていた言葉は「差別用語」の烙印の下、封印されてしまう。言葉の使い捨てである。
だから「作品に『差別用語』が出る」から規制するという行動・態度は、差別問題に真摯に向き合わない事だ。差別と差別用語は別の事象なのに、これを混同させている。「差別用語だから差別だ」という本末転倒を招く。
それは差別かという思考・判断こそ本質であるはずだ。
実際、「『差別用語』が出る」が理由で封印された作品の規制→解禁のサイクルを本書で概観すると、パターンは同じだ。まず騒ぎが起こる。自粛する。ほとぼりが冷めた頃に但し書きを添えておずおずと懐から取り出す。ここで見られているのは差別ではなくトラブルであり、リスクだ。
しかし、封印が解かれて「よかった」と満足していては永遠に封印作品問題は解決しない。なぜなら人々は言葉を使い捨てにして、差別用語というゴミ捨て場に投棄し続けているから。今当たり前に使っている言葉は将来、差別用語になっている。
この問題は「すべて人は生まれながらに平等」という著しく現実から乖離した「無理」を「道理」にしてしまおうという人類の無謀な決断に端を発していて、そのしわ寄せを昔の言葉、昔の作品は受け続けている。
本書は優れたカタログだが、あくまでカタログなので、本質についての記述はほとんど無い。ただ、これをもって本書を非難するつもりはない。これは人権を持つ現代人として、自ら考えて行くべき問題だからだ。